「国のかたち」をつくった西郷・大久保・前島

明治維新から1世紀半がたちました。
鹿児島ではNHK大河ドラマで「篤姫」に続き「西郷(せご)どん」が登場したことで空前の大ブームになったとか。

明治維新の立役者たち

隣同士であった幼馴染の西郷吉之助(隆盛)と大久保正助(利通)が、明治維新の主役として歴史の舞台を華やかに飾るわけですが、ご存知の通り維新後の2人は朝鮮出兵を巡る征韓論論争で対立し、最後は無二の親友だった二人が武力で衝突します。

明治10年(1877年)に西郷は自ら指揮した西南戦争で自刃。
大久保も翌明治11年(1878年)5月14日に紀尾井坂にて不平士族の刃に倒れます。(紀尾井坂の変)
ところで、大久保は暗殺されたこの日、生前の西郷から送られた手紙を持っていたそうです。
固くなまでに自らの信念に殉じた二人。
志は違えども、かつての親友の死を悼んでいたのかもしれません。

前島密の活躍

さて、ここで郵便の父・前島密が登場します。
前島については、この郵便珍話でも何度かお伝えしておりますが、ここでも歴史の1ページに大きな役割を演じています。
というのも、前島は大久保を支え続けた一人でもあるのです。前島は大久保が暗殺された直後にも紀尾井坂に駆けつけています。

西南戦争の際は京都で官軍の指揮を執る大久保に代わり、内務を引き受けていました。
その徴募の任務も前島がこなします。 このとき機略を働かせ、官軍の勝利に貢献しています。
戊辰戦争の際に賊軍となった旧士族を即戦力として巡査隊として取りたてたのです。
薩摩への怨恨を忘れ得ない旧会津藩出身の巡査隊は、「戊辰の復讐!」と叫びながら薩軍を苦しめたそうです。

こんなエピソードがあります。 明治維新後、大久保が「大阪遷都」を主張した頃、ある投書が届きます。
そこには、大久保の大阪遷都論を絶賛しつつも、遷都の地としては江戸こそがふさわしいと説いていました。
実はその「江戸遷都」論の投書は前島が偽名で行ったもので、その後の大久保に大きな影響を与えたとも言われます。

ひとつの「国のかたち」が出来るまでの凄まじいパワーと機智。1通の手紙が現実に国を動かしていったことに感動すらおぼえます。