日出処の天子(ひいずるところのてんし)

『日出処(ひいづるところ)の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや…』(日出処天子至書日没処天子無恙云々)
これは、推古15年(607年)、厩戸皇子(うまやどのおうじ 後の聖徳太子)が隋の皇帝に送ったとされる有名な国書の一文です。

強気の聖徳太子 日本国から大国隋への書簡

30年以上前には日本の漫画作品「日出処の天子」(山岸涼子作)が大ブレイクしました。
”東の国(日本)の天子から、西の国(隋)の天子へお便りします。お変わりなくお過ごしでしょうか?”
これを読んだ隋の煬帝(ようだい)は激しく怒り、次からは無視しろと高官に言ったと隋書倭国伝にあります。

理由には多くの説がありますが、日本を「太陽の昇る国」、隋を「太陽が沈む国」と表現したこと。
もう一つは隋の皇帝にしか使用されていなかった「天子」という言葉を日本でも使ったことが原因のようです。
何しろこれは、大国に対してあからさまに「あなたとは対等の国同士ですよ」と言ったようなもの。

翌年、「東の天皇、敬しみて、西の皇帝に白す」との書き出しの国書を再度送っています。
一見、少しへりくだったようにも思えますが、依然として双方に共通する「皇」という字を用いて地位を強調しています。
当時、隋周辺の国々は使いの文書には臣下の礼をとり、絶対服従の態度で臨むのが常の時代でしたから、対等な立場での文面を送った厩戸皇子の外交的真意は計り知れません。

そこには、国際情勢の読みとして、高句麗との争いに苦戦する隋の将来を見据えていた(実際、この11年後には隋は滅んでしまいます)のかもしれませんし、

また、587年に蘇我馬子が物部守屋を滅ぼした「丁未の乱」以降、安定した政治・経済により国力増強(冠位十二階による人材登用や十七条憲法制定も遣隋使の少し前)していたことも関係しているかもしれません。
この文面が日本における最古の「書簡(おそらく木簡?)」の記録と言われますが、これらの記録から様々な時代背景や国の力関係などが見え隠れし興味をそそられます。

しかし、単に古いから有名なのではなく、何よりこの文章の表現が粋で美しく、この名文が最古の記録にあることに何やら喜びが湧いてきます。