「桜田門外の変」に思う

虎ノ門ヒルズからほど近い愛宕神社は「出世の階段」でも有名です。以前BS朝日の「歴天」という番組で「日本の歴史を変えた天気 桜田門外の変」が放映され、愛宕神社が幕末の歴史の舞台になっていたことを知りました。
そこで今回は「桜田門外の変」について少し触れます。

幕末日本を統制した井伊直弼大老


<画像>(井伊直弼像)素材番号 : 730695
黒船来航後の混乱期の日本の中で、幕府の最高実力者である大老の地位に就いた井伊直弼(なおすけ)は、尊王攘夷派の活動家・思想家を徹底して粛清し、福井藩士橋本左内、長州藩士吉田松陰等を刑死させ(安政の大獄)、その結果時代は急激に反幕的な空気を強めていきました。
そのような中、尊王攘夷急進派の水戸藩の浪士17名と薩摩藩浪士1名の計18名が立ち上がり、安政7年3月3日(旧暦)雛祭り総登城の日を狙われた井伊大老は大名行列を桜田門手前で襲撃され暗殺されました。
この事件は、暗殺による革命という影を引きずりながらその後の時代を大きく動かしていくトリガーになりました。

襲撃当日朝、この18名(桜田18烈士と呼ばれている)は、季節外れの重たい大雪の降る愛宕山で待ち合わせをした後、井伊直弼邸に近い桜田門へと向かいます。
おそらく今の桜田通りを北上、霞ヶ関1丁目の日本郵便の社屋近辺を通りながら警視庁のあたりに出たのでしょうか。
深い雪の中、午前8時に桜田門近辺に到着。江戸町民らに混じり「武鑑(ぶかん)」を手にして大名駕籠見物を装いながら井伊直弼の駕籠を待ったといわれます。そして、通りかかった行列に襲撃を決行。
まず、一人が行列先頭にて直訴状を差し出す振りをして、行列に斬りかかる。
警護が前方に気を取られたところで仲間が駕籠めがけて短銃を発砲。その発射音を合図に、左右から一斉に斬りかかりました。
湿った雪の中、両刀に柄袋をかけ鞘袋をした護衛の彦根藩士たちは、とっさに抜刀できず思うように働けない。
奮戦はするものの、主人の首を襲撃者に預ける結果となりました。

ところでここで登場する「武鑑」とは何でしょう。
前述の番組の中でも紹介されましたが、江戸時代に出版された年鑑形式の紳士録のようなものです。
多数の武家が集まる江戸において、武士と取引を行う町人達には「家」を識別する必要がありました。武鑑はそのための参考書であり、また江戸の町を訪れる人々にとってのガイドブックでした。
この武鑑大名や江戸幕府役人の情報が詳しく記載されています。(時期や種類により少々内容が違うようです)

1 .大名の姓
2 .大名の本国
3 .大名の系図
4 .大名家当主の人名
5 .大名の席次
6 .家督相続年
7 .位階
8 .正室
9 .御嫡
10.参勤
11.時献上
12.家紋
13.槍印
14.押
15.駕
16.纏
17.船印、船幕印
18.屋敷地
19.菩提寺
20.家臣

こういった内容です。すごい情報が開示されているものです。
番組では、この武鑑の中にはこの日の襲撃にとって重要な内容が記載されていたというのです。
ある程度の距離からでもどこの大名かが見分けられないと事をし損ずる可能性があります。
ところがこの武鑑には、槍印(行列や出陣の時に槍の印付の環に付けて家名を明らかにした標識)も丁寧に記載されています。
襲撃者達は手元の武鑑でターゲットを明確に確認できたというのです。(住所の記載もあるので、襲撃地の検討も容易だったでしょう)

今で言えば、重要人物が乗る車の車種・色・ナンバーはもちろん、ルートから警護状況までしっかりと公表しているようなもの。
個人情報の取り扱いとしては、利用する方もさせる方も最たる悪例に思えるのは私だけでしょうか?