「切腹最中」を味わいながら(赤穂藩の激走に思う)

「切腹最中」で有名な新橋の銘菓「新正堂」は大正元年創業。
その名の通りパックリと割れた皮から餅入りアンコが”これでもか!”とはみ出す姿はグロく、一見ブラックジョーク。ところが意に反して味も香りも絶品。

「切腹最中」その名称の由来は?


かつて人気のTV番組「有吉くんの正直さんぽ」で紹介され、一躍有名になりました。
仕事のクレームなどでお客さんのところに「代わりに腹切り」でお詫びの手土産で持っていくサラリーマンも多く好評だとか。

ところでこの「切腹最中」は、忠臣蔵事件の発端となった浅野内匠頭の切腹に由来します。現在、JR新橋駅から数分歩いた日比谷通りに面して「浅野内匠頭終焉之地」の碑が建っています。
虎の門ヒルズも近いオフィス街がかつては歴史の大舞台だったことに何とも言えない感銘を受けます。

そこで、しばし江戸中期を「さんぽ」してみたいと思います。

浅野内匠頭と赤穂藩の運命

そもそも事件は、勅使御馳走役であった赤穂藩主・浅野内匠頭が江戸城・松之廊下で吉良上野介に突然「この間の遺恨、覚えたか!」と叫びながら小刀で斬りかかったことが発端でした。
これが、元禄14(1701)年3月14日のこと。
刃傷沙汰に及んだ理由は諸説あるようですが、内匠頭が上野介に何かしら耐え難いほどの怨恨を抱いていたことは確かでしょう。

「殿中でござる!!」抜刀厳禁の城内においての狼藉が許されることはありません。本人も処分の決定する日まで軟禁を覚悟していたことでしょう。しかし、なんと内匠頭はその日のうちに切腹を命じられました。

「風誘う 花よりもなお 我はまた 春の名残を いかにとやせん」
(風に誘われて散る花も春が名残り惜しいだろうが、それよりもなお、もう見ることが出来ない春を名残惜しく思う私は、いったいどうすれば良いのだろうか。)との辞世の句を残した35歳の内匠頭の無念はいかばかりであったことでしょう。
更には、お家の取りつぶしにまで発展。ところが、被害者である吉良上野介には何のお咎めもなかった(喧嘩両成敗ではなかった)ことで、義憤に燃えた浪士が立ち上がったのが赤穂浪士の四十七士です。

155里を駆けに駈けた家臣


ここで注目すべき点を、「郵便珍話」らしい角度で見てみます。
刃傷沙汰が発生したのは前述の通り3月14日の午前11時頃。
この「殿中刃傷の発生」の書状をを即刻赤穂城にもたらすべく、この日の夕方に江戸・鉄砲洲の赤穂浅野家の上屋敷を萱野三平と早水藤左衛門が出発。
その夜、「内匠頭切腹」と「赤穂藩淺野家改易」を伝えるべく、原惣右衛門と大石瀬左衛門の第2陣が西に向かいました。

江戸から播州赤穂までの道のりは155里(単純計算で620km フルマラソンの14.5倍)。驚くべきことに、第1陣の到着は3月19日明け方。期間にして4日余り。
更に第2陣到着は1陣の16時間後。
当時は、馬での移動は許されないため、早駕籠を使ったと言われます。
通常なら十数日かかる行程を昼夜兼行で駆けに駈けたのでしょう。
おそらくは、乗り継ぐ宿場(東海道・西国街道などの70箇所)ごとに待機していた次の舁手と交代して走る駅伝方式であったと思われます。
早駕籠ですので、中の人も揺れに振り落とされないよう必死でつかまっていたことでしょう。
街道が整備された江戸時代とはいえ、現在とは比べ物にならないほど山坂も多く関所もある。
それを、ともすれば「広告郵便」や「ゆうメール」よりも早く走り抜けた赤穂の藩士たち。

試しに、グーグルマップで赤穂浅野家の上屋敷にほど近い京橋郵便局から兵庫県の赤穂城址までを観てみました。
それによると、東海道・国道1号線経由で距離608km、徒歩(ぶっ通し)で126時間(5日半)と表示。
それよりも1日早い到着。どれほど凄い旅程だったかがわかります。

「忠臣蔵ゆかりの地」めぐりの方は、是非マッカーサー道路沿いの「新正堂」にもお立ち寄りを。
「義士ようかん」に描かれた四十七義士の武者絵と「正直さんぽ」の有吉くんステッカーが出迎えてくれます。