真田の智勇と情報通信の力

豊臣政権の象徴・大阪城が徳川幕府によって灰燼に帰したのは1615年5月(旧暦)。
クライマックスである大坂の陣。司馬遼太郎の歴史小説「城塞」は多くの真田ファンを生んだことでしょう。

真田の知略-3度の合戦

真田一族の魅力のひとつは、その知略にあります。
特に、最大のライバルである徳川家康に何度も煮え湯を飲ませた智謀・戦術は圧巻。

1回目は、第一次上田合戦。
真田の居城であった信濃国の上田城(現:長野県上田市)での戦いです。
猛将率いる徳川7,000の兵を迎え撃つ真田兵1,200。
おとり作戦にひっかかった徳川勢を上田城二の丸まで引き込んで撃退。
慌てて逃げる徳川勢は、一斉に攻撃に転じた城方の追撃を受け、更に神川に逃げた潰走兵は溺死、死んだ徳川勢は1300とも。
地形を生かして見事に真田勢が勝利した戦いでした。

2回目は、第二次上田合戦。
関ヶ原に向かう徳川秀忠率いる徳川軍3万8千を、降伏を匂わせて上田城(真田軍3千)で足止めした挙句、あからさまな挑発で徳川軍をさんざんに悩ませた智謀の光る戦いでした。
城に引き込んで身動きのとれなくなったところを奇策でさんざんに叩く。
結局、徳川軍は得るところもなく大損害を喫して上田を後にしました。
この戦は、秀忠勢を関ヶ原の戦いに遅参させるための作戦であったとの説もあります。

3回目は、大坂冬の陣。ここでの主役は真田信繁(幸村)です。
おそらく、世界最大級の城での世界最大規模の籠城戦(徳川軍20万人に対し豊臣方10万人の籠城と言われる)において、彼ほどの華麗な戦いは他に類を見ることはできません。
幸村は、大阪城の弱点とされる南方をカバーするため敢えて敵との最前線に出丸(後に真田丸と呼ばれる)を築きます。
構造は東西180メートルほど、半円形(一説には方形)の曲輪で、三方に堀・塀を配し、外側には三重の柵を敷いた独立堡塁。
徳川軍は、前田利常・井伊直孝・松平忠直らの軍勢が攻勢を開始。しかし、ここでも徳川軍は挑発に乗って壊滅的打撃を受けます。
寄せ手を引き付けるだけ引き付けて一気に殲滅する幸村の作戦は上田城での戦術を踏襲したものだったのでしょう。

真田を支えた情報通信力


結局、徳川は生涯で3度戦って、一度も真田を撃破することができなかったのです。
その理由として、真田の智謀はもとより、その卓越した情報通信能力にあると言われます。

関ヶ原で西軍に加勢したとして、真田昌幸・幸村父子は和歌山の九度山に蟄居を命ぜられましたが、その間も、全国津々浦々の情勢を掌の上にあるかのように掌握をしていたと言われます。
また、大坂の陣でも家康の動きを正確に捉えていたと言われます。
籠城の武将が20万の敵の囲いの中で、情報を的確に得るのは尋常な方法では不可能でしょう。

当時、戦時の情報伝達手段はさまざまありました。
・矢文(矢柄に結びつけたり穴に入れたりして射て届ける書状)
・狼煙(遠くから煙を挙げての通信。内容により色を変えた)
・狼火(夜など遠くから火で合図する)
・龍勢(上空で傘が開き、様々な仕掛けが作動する花火)
等々。

幸村の場合は忍(しのび)が通る抜け道を用意していたのではないかとも言われます。
真田十勇士で知られ、幸村に仕えたとされる10人の家臣はいずれも伝承上の架空の人物のようですが、真田は後世に伝えられるほどの諜報力を持っていたのは事実でしょう。

しかし、この世界史的籠城戦も冬の陣が終わると家康の策略でほとんどの濠を埋められ裸同然にされてしまいます。真田の出丸もまっさきに取り壊されてしました。

この段階での籠城はイコール「死」を意味します。
残された勝機は「家康一人を倒すこと」。あらゆる情報も、この一点のために集約されたことでしょう。
幸村は、大坂夏の陣で家康をもう一歩のところまで追い詰めましたが、力尽きて打ち取られてしまいます。
しかし、その鮮烈なまでの猛将・智将ぶりは爽やかな印象すら与えてくれます。